2012-05-17
おはようございます。
先週は寒い日が続きましたが
今週は昨日から気温が25℃を超え
長袖では暑さを感じました。
もう気温が極端に下がる事は無いとは思いますが
かと言って気温が極端に上がる事は
歓迎できませんね~・・・・・
********************
本日は、この方をご紹介します。
東洋のストラディバリ 陳昌鉉
陳昌鉉(チン・チャンヒョン/ちん・しょうげん/Jin Chang Heryern).
陳昌鉉さんは、昭和4年(1929年)
韓国慶(キョン)尚(サン)北道(ブグド)梨(リー)川村(センソン)
(現在の金泉(キムチョン)市(シ))に生まれました。
14歳(昭和18年)で日本に渡り
教師を志して苦学の末に明治大学英文科を卒業しましたが
国籍の関係で教師になることができませんでした。
失意のなかで聴いた航空工学者糸川英夫博士の講演で
「名器ストラディバリの再現は不可能」
との言葉に一念奮起し
その後の半生をバイオリンづくりに捧げることになります。
そのバイオリンづくりの道も平坦なものではありませんでした。
国籍の差別がここでも付きまといます。
どこに行っても弟子入りを断られ
最後の望みとして訪れた地が
当時日本でも有数の弦楽器生産地であった木曽福島です。
しかし木曽福島の工場でも結局採用されることはありませんでした。
ところが陳さんは、「もう戻る道はない」と覚悟を決めここで独学を決意します。
山平地区に掘っ建て小屋を建て
工場での作業の様子や作業員からバイオリン製作技術を習得します。
道具づくりも自ら行なう陳さんは
やがて道具の仕入先で李南伊さんと出逢います。
南伊さんと結婚した陳さんは、二人三脚でバイオリン製作に励み
昭和36年、はじめて行商に行った東京で
桐朋学園の篠崎弘嗣教授と運命的に出会います。
篠崎教授は日本のバイオリン界の草分け的な存在で
何人もの弟子を育てていました。
その篠崎先生を通じて道が開け
その年、東京に引っ越して本格的にバイオリン製作者の道を歩み始めます。
昭和51年(1976年)、アメリカで開催された
「国際バイオリン・ビオラ・セロ製作者コンクール」において
6部門中5部門で金メダルを獲得するという快挙を成し遂げ
そして昭和59年(1984年)、アメリカバイオリン製作者協会より
全世界でわずか5人しかいない
「無鑑査バイオリン製作家」の一人として認定され
「マスターメーカー」の称号を授与されました。
これが、陳さんが「東洋のストラディバリ」と呼ばれる所以です。
平成10年(1998年)日本文化振興会より国際芸術文化賞受賞
平成13年、調布市より市政技能功労賞受賞。
現在では、名実ともに日本における
バイオリン製作の第一人者として活躍されています。
その半生は、聞き書き本『海峡を渡るバイオリン』(河出書房)や
コミック『天上の弦』(小学館)に紹介されています。
また三友社出版の高校英語教科書COSMOSⅡでは
「the mystery of the violin(バイオリンの謎)」
として陳さんの生涯をかけた挑戦の様子が
題材として紹介されています。
*長野県木曽町HPより
http://www.town-kiso.com/kisogaku/1336/001335.html
********************
陳昌鉉さんの事は「天下の弦」を読んで知りました。
その後「海峡を渡るバイオリン」も読みました。
韓国での生活も決して裕福な訳ではなく
来日してからの苦労も
とても大変だったようです。
バイオリンの製作にあたって
ほぼ独学での過程は
読んでいて壮絶なものでした。
奥様の南伊さんあっての「マスターメーカー」だと思います。
この陳昌鉉さんが13日に大腸がんでお亡くなりになられました。
バイオリン製作に掛けた82年の人生でした。
みなさんも、もしよろしければ
「天下の弦」「海峡を渡るバイオリン」を
お読み下さい。
先週は寒い日が続きましたが
今週は昨日から気温が25℃を超え
長袖では暑さを感じました。
もう気温が極端に下がる事は無いとは思いますが
かと言って気温が極端に上がる事は
歓迎できませんね~・・・・・
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本日は、この方をご紹介します。
東洋のストラディバリ 陳昌鉉
陳昌鉉(チン・チャンヒョン/ちん・しょうげん/Jin Chang Heryern).
陳昌鉉さんは、昭和4年(1929年)
韓国慶(キョン)尚(サン)北道(ブグド)梨(リー)川村(センソン)
(現在の金泉(キムチョン)市(シ))に生まれました。
14歳(昭和18年)で日本に渡り
教師を志して苦学の末に明治大学英文科を卒業しましたが
国籍の関係で教師になることができませんでした。
失意のなかで聴いた航空工学者糸川英夫博士の講演で
「名器ストラディバリの再現は不可能」
との言葉に一念奮起し
その後の半生をバイオリンづくりに捧げることになります。
そのバイオリンづくりの道も平坦なものではありませんでした。
国籍の差別がここでも付きまといます。
どこに行っても弟子入りを断られ
最後の望みとして訪れた地が
当時日本でも有数の弦楽器生産地であった木曽福島です。
しかし木曽福島の工場でも結局採用されることはありませんでした。
ところが陳さんは、「もう戻る道はない」と覚悟を決めここで独学を決意します。
山平地区に掘っ建て小屋を建て
工場での作業の様子や作業員からバイオリン製作技術を習得します。
道具づくりも自ら行なう陳さんは
やがて道具の仕入先で李南伊さんと出逢います。
南伊さんと結婚した陳さんは、二人三脚でバイオリン製作に励み
昭和36年、はじめて行商に行った東京で
桐朋学園の篠崎弘嗣教授と運命的に出会います。
篠崎教授は日本のバイオリン界の草分け的な存在で
何人もの弟子を育てていました。
その篠崎先生を通じて道が開け
その年、東京に引っ越して本格的にバイオリン製作者の道を歩み始めます。
昭和51年(1976年)、アメリカで開催された
「国際バイオリン・ビオラ・セロ製作者コンクール」において
6部門中5部門で金メダルを獲得するという快挙を成し遂げ
そして昭和59年(1984年)、アメリカバイオリン製作者協会より
全世界でわずか5人しかいない
「無鑑査バイオリン製作家」の一人として認定され
「マスターメーカー」の称号を授与されました。
これが、陳さんが「東洋のストラディバリ」と呼ばれる所以です。
平成10年(1998年)日本文化振興会より国際芸術文化賞受賞
平成13年、調布市より市政技能功労賞受賞。
現在では、名実ともに日本における
バイオリン製作の第一人者として活躍されています。
その半生は、聞き書き本『海峡を渡るバイオリン』(河出書房)や
コミック『天上の弦』(小学館)に紹介されています。
また三友社出版の高校英語教科書COSMOSⅡでは
「the mystery of the violin(バイオリンの謎)」
として陳さんの生涯をかけた挑戦の様子が
題材として紹介されています。
*長野県木曽町HPより
http://www.town-kiso.com/kisogaku/1336/001335.html
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陳昌鉉さんの事は「天下の弦」を読んで知りました。
その後「海峡を渡るバイオリン」も読みました。
韓国での生活も決して裕福な訳ではなく
来日してからの苦労も
とても大変だったようです。
バイオリンの製作にあたって
ほぼ独学での過程は
読んでいて壮絶なものでした。
奥様の南伊さんあっての「マスターメーカー」だと思います。
この陳昌鉉さんが13日に大腸がんでお亡くなりになられました。
バイオリン製作に掛けた82年の人生でした。
みなさんも、もしよろしければ
「天下の弦」「海峡を渡るバイオリン」を
お読み下さい。





